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新たな時代 / 発言者:nagao nobuco

コーヒーを大切に大切に扱っている方の気持ちを感じ、魂がほっこりします。新たな時代で、真を貫いても殺されたり、大切な人を奪われたりしない時代だということは、新しく生きる指針となります。

「大切なものが増えるのが怖い」という気持ちがあります。ビデオ講演会をお聴きして、表現がやさしさを汚すものであったら申し訳ないですが、自分だったらと考えると、父や母や、大切な人が人質に取られて、悪魔のような人に純粋な気持ちを踏みにじられたり、拷問にかけられたり、辱めを受けたり・・・と想像しただけで、自分は踏み絵を踏むと思いました。大半の人がこうなのでしょうか?それとも、そうではないのでしょうか。真を貫くか、貫かないかということが本題なので、実際に踏むか踏まないかという話ではないのでしょうが、権力や悪は戦って勝てるものではないと因子的にもずっと思ってきました。イエスキリストを十字架にかけた子孫なんだというのも納得がいきますが、イエス様が亡くなったあとは人間は体は生きていても、魂は死んでしまっていつか滅びるとしか思えなかったです。先祖の代表としていだきに会っているということが、どういうことか、自分の内面が変わると伝搬することが世界や地域が変わることだと、改めて今日1日を大切に過ごそうと身に沁みます。もめごとが嫌、争いごとが嫌といってしまえばそれまでなのですが、怖い(と感じる)人がいると、その方のいないところへ行ってから自分の仕事をしたり、その方の神経を決して逆なでしないようにしながら、自分のエリアのことだけはなんとか清潔に行おうとするところがあります。これが、自分の頭でだけの、部分的な因子によるものではないかとうすうす気づいていましたが、ビデオ講演会をお聴きし、今朝改めてハッキリと感じるのでした。分断していく非人間的な在り方の根本には、恐怖や、どうしようもない、仕方ないという諦めがあったということを、受け入れるとふっと溶けていく感じがしました。「怖い人」というのも、本当に怖いのかどうかは、わからないものだと、今の時代では認識しています。新たな時代を生きていることをわかり、変わっていくことは人間の時代を作っていくと、人と繋がることを考えます。完全に乗り越えどきだと体はわかっています。

周りを見ては「できない、できない」と苦しむことを楽しんでいるとしか思えないときに、これも自分の鏡で、私自身は、おおいなる存在に逆らい、何が出来ないことを楽しんでいるのだろうか?と、わが事として顧みます。権力から弱いものを守らなければ、馬鹿なことを言って殺されないようにしなければ、と必死で知りあいや仲間を守ろうという気持ちに勝手になっているときがあることに気が付き、でも、その人たちはいまの時代、わたしに守られる必要は当然ないですし、完全に因子だと、おもしろくなってきました。それもこれも解決の場があるがためです。それぞれの因子をなくし真で生きようとしていることは、とても自分などには理解しきれることではないのでしょうが、悲願だと、元気が湧いてきます。ありがとうございます。

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