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 / 発言者:Keiko Koma

高句麗伝説から始まった5月は最後の日も先生のコンサートで終わるという巡りから、6月に向かい、何がなんでも変わらねば生きていけないと感じていました。現象をもって今日をもって変わるよりないと感じていました。些細なことのように感じられる現象も、私にとっては、次は自分の身を傷つける警告と受け止めている現象なので、気持ちを引き締め、コンサートに行かせていただきました。
 先生が書かれたコンサートメッセージにはいつも驚きます。日頃考えていながらも、自分では答えを出せずにいることがずばりコンサートメッセージとなっているのです。それも自分では自覚も認識すらも出来ない本質的なことに目が開く内容です。度肝を抜かれながらも解決へ向かえることに生命は喜び、言いようのないときめきが生まれます。
 今日の一部の冒頭のメッセージは、私にとってはとってもタイムリーでした。「魂の全体に」というタイトルで「助詞の「に」は、時間的、空間的、心理的なある点を指定するのが上代の時代から使われているもとの意味です」このことをわかることができ、救われます。救われるという表現になる程、いつも「てにをは」を考えると訳がわからなくなる事が多いのです。話し言葉ではここまで考えずに表現していますが、書き言葉になると時折訳がわからなくなります。失礼ながら、WebSalonの書き込みを読む時、てにをはも主語も目的もわからずに気持ちが悪くなることが多く、何度もこの件について書き込みをしようと考える程でした。今日は助詞の「に」についてを教えていただき、本当に救われる思いでした。そして魂のことが書かれてありました。「古の哲学では魂が優先です。魂なき身体論はありえないのです。しかしながら身体と魂が完全に全体的に統合されたということはありません。尊い生命としてあったのですが、無残に殺されてしまうか、人生半ばにして非業の死をとげてしまいました。魂と身体、魂と魂が全体的に融合するこれからの時です」全文ではなく恐縮です。今日のコンサートにて、部分と全体を経験させていただき、私は頭が全体と完全にひとつになれない状態であることを自覚しました。このまま死ねば、人生半ばにし死んでいくということだと生きて死んでいく状態を感じ、今までの時代であったら、この先はなかったのだと知りました。今は、今日のメッセージのようのに、「魂と身体、魂と魂が全体的に融合する」ことができるのです。
 私は、一部のパイプオルガンの演奏をお聞きし、真の神に出会いました。途中、部分に囚われ、今に集中できない時、パイプオルガンの音は「俺のことを忘れているのか」という先生の声に聞こえ、先生の背中が見え、涙ほとばしりこぼれました。生きる要、最も大切な先生のことを忘れたら、部分に隔っていくとわかりました。忘れる気などなくても、頭の状態が今に集中できないと全体とひとつにはなれません。今に集中すると真の神と一体となれる至福の喜び、安堵が生命の奥深くまで染み入り、涙よりありません。その時、胸の奥深くにある存在が明らかにあり続け、「魂」と言葉になります。全体とひとつに生きてこそ魂あると経験しました。
 すると、やはり先生のメッセージ全文に表現されていることを確認します。先ほどの「古の哲学では。。。」と続くメッセージの前には、「全体的な状態で何かを創出したことがない」との表現がありました。何かができても部分的に突出している状態が現代の限界状況を作っているのです。何とも悲しく、涙よりない経験となりました。
 第2部「恩寵」というコンサートメッセージも素晴らしく、「我々を取り巻く空間はどなたにも分け隔てなく新たな未来へのエネルギーに満ちています。それもどんどん増えていっています。その恩恵を受けることもなく身を滅ぼしかねない人々も多く見受けられます。」この違いは運の良し悪しではなく、「魂が全体的にはたらいている人は全体的にこの空間の恩恵にあずかる事が間近にあります。」とのメッセージを詠ませていただき、今日のコンサートにて「魂の全体に」を経験できたので、部分に隔っている状態は死んでいくとわかりました。身を滅ぼす生き方です。私は、些細な現象からもこのまま変わらないと死んでいくと感じることがあり、コンサート中にはずっと自分の状態を考えました。全体とひとつになれない状態は外れ、落ちていくだけとはそのまま見えわかりました。この時を逃してはいけないとの最後のメッセージが胸に刻まれました。真の神とひとつに生きるより生きることはないとわかり、コンサートは終わりました。これからの生き方を教えていただきました。アンコールが終わった時の会場の拍手は感動の嵐と聞こえ、感動しました。感動の嵐の只中に身をおけます幸運に感謝し、生命ありここにいるということの計り知れない恩恵に感謝よりなく、涙よりありません。神に出会え、胸の奥が震え、気が狂わんばかりに感動します。
 コンサート後に先生にパイプオルガンはどうか、と尋ねられ、演奏のことではなく、パイプオルガンの特性について尋ねられたと思い、特色がないと思わず表現してしまったのです。ずっと気になり、何を表現したかったかを考え、経験を辿ると、自然の中にいるようで、とても自然に聞こえ、特色がないことがとても楽に感じたからです。全体とひとつとはこのことと感じたのです。自分が特色と感じてきたのは今日の先生のメッセージの中にありました部分的に突出した能力だったと気づきました。この状態はとても疲れ、身が削られていくようです。全体と一つである時、とても心地良いのです。全ては自分の状態で先生の演奏をお聴きし、生命に負担がかかる状態や未来を阻む状態は浮き出てきます。変わらずには生きていけないことを身にしみます。コンサートが終われば何もかも消えています。なくなっているのです。根源解決の経験であります。今日の最後は、真逆になる頭が見え、この頭では滅ぶと見えました。そして最後の最後の演奏をお聴きし、全体とひとつである生命を体感し、真の神に出会いました。生命の奥深くでは、最もやすらぎ、生きていけることをわかっています。わかっていることをわかっていないようにしたり、とぼけていると本当に死んでしまうと真に迫りわかりました。5月の最後の日のコンサートは今までの生き方の最後の日ともなりました。生きるか死ぬかの時と身をもってわかりました。
 6月に入り、全体とひとつに生きることに徹し、6月の「高句麗伝説」へと向かいます。ありがとうございます。

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