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真の美を胸に生きる / 発言者:nagao nobuco

もしかしてわたしのほうが、発して表現していかないといけないの?いだきを知らない人々の生命。いだき講座を受講したけれど、断たれてしまった生命。受講し救われつつ、魂の奥底から求める、ということはなく、そんなにコンサートや講座を欲さない生命。コンサートや講座へはこなくても、常に先生とつながっている生命。いだきに、この十数年、どんなに行きたくない時期も、何とか辞めようと思っていた時期も最低月1回は、先生に会いに来ずにはいられなかった、わたしの生命。講座コンサートはおろか、高麗さんのサロン、ボランティアミーティングを含めたほぼすべての催しに参加している方の生命。いろんな生命があるけれど、すべてを受け入れて、自分は自分の表現をしっかりとし自分の生きる場をつくっていかないから、絶望的に苦しくなる。「いだきへ来る」と最終的に決定して体を動かすのは自分だけど、どうしてそう決断するのか、決断しない生命とは何が違うのか、決断する体と魂を持っている(心はこれまで、現状、あまり持っていなかったかもしれないです)ことを受け入れ、どうするのか。みんな(私が「同じでありたい」となぜか頭と心で願う人々)が来ない「いだき」へこれだけ、自分で決めて通っているというだけでもけっこうな個性です。

応用コースをありがとうございました。前から心配していたのは、いだきへ来すぎると、普通の人と会話ができなくなるのではないかということです。今その心配が現実のものになろうとしていて、なぜかというと、先生からお聞きする「真」はあまりに「真」で、聞けば聞くほど、どんどん覚醒してしまう。絵本か?というほど大きな文字でわかりやすく書かれた自己啓発本やカウンセリングの道しるべ、のようなタイトルの本が、(すべてがという意味ではありません)ばかばかしくなってしまい、そんな本が売れている、というこの日本の現状、国民の幼稚化、ばかばかしく悲しく、寂しく、やりきれなく、苦しい。難しくて読めなくて、でも真が記されていて、「読める大人は、いる」という本の存在が鎮座していることの魂が満たされるような安心感。・・・ただ、現状跋扈している「読みやすい(と称される)やたら文字の大きくて、わかりやすさをアピールした本」等を「ばかばかしい、幼稚」と多く感じるようになったのは、あくまでも自分がいだきへ来ているからです。講座を受講したてのころは、アンドロメダエチオピアコーヒーとその辺のコーヒーの味の違いもそんなにわからなかった私です。「どれもおいしい」と平気で言うのです。「わからなかった」と書きましたが、本当は違いは、わかろうとすればわかるのです。わかっても困るので、「どれもおいしい」としているのです。今もそういう癖があると、書き込みの際に気付きます。2日目で「自分の傾向でものを見る」という因子を高麗さんからお伝えいただいたとき、先生が「ものごとの良いところばかり見ていてもだめだよ」と仰ってよく理解できたつもりでいましたが、いまだにその癖が抜けないところがあり、多少の違和感は目をつぶるどころか、「相手のいうことが正しい、だってこんなに素敵な一面を持っているのだから!」と良い面だけをお花畑のように広げてしまい、後々枯れた花々の掃除に苦労します。いまの感性、感受性は、あくまでもいだきしん先生の魂と長い長い研鑽によるお知恵に触れて、いのちが反応しているに過ぎず、自分ひとりで達したものではない。そのことをもっと突き詰めて考えるべきだと感じました。だから、もっと感謝して、能力を使わなければいけない、生きなければいけない、と。

「だいたい、正解」は不正解で、苦しくてしかたなく参加させていただいた応用コースでした。「だいたい正解」でダメなら、「ほとんど不正解」となってしまいます。どうすればよいのでしょうか。今日はそのことを考えます。ありがとうございました。

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