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「運」について / 発言者:tmiyazaki

  この土日、山岳部の野営訓練として、金剛山の登り、山上のキャンプ場で一泊してきた。前に書いた夏山行のための準備である。(ミーティングで、甲斐駒ヶ岳の秀峰に立て、と大いに発破をかける。)しかし、生徒並びに顧問の先生の一部は、金曜の夜の雷雨で、すっかり「中止」を期待していたようだ。しかも、台風まで接近している天気概況で、副校長まで、「行くのですか」と心配を寄せてきたとか。ところが、土曜は、曇ってはいたが、次第に晴れ間も見えてくる天気で、日曜の朝までは降らないでしょうという予報だった。「だれが晴れ男?」と言いながら、訓練を終え、朝早めに下山して、大阪まで帰ってきたら、雨が降り出したのだ。まさに幸運に恵まれた。なんとか夏山合宿を成功させたいというわたしの気持ちを天が味方してくれているとさえ思った。しかし、「ここで運を使い果たしてしまうのでは具合が悪い」という声も。「運」には分量があるのだろうか。
  今、学校で、中島敦の『山月記』をやっているが、俊才の李徴が虎になってしまう運命を嘆く話である。「わけのわからぬものを、そのまま受け止めて生きていくのが人間のさだめ」と、悲運の李徴に言わせている。「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」とがいけなかったのだと自戒させているのだが、わたしは、この李徴の運命的な、持って生まれた性格というか人となりを、作者は決して断罪しても反省してもいないと読み取りたい。運命のままに生きた男の悲哀をテーマにしているのであって、倫理書ではないと思う。
  ところが、今日高麗先生は、「運命のままに生きることは死を意味する」と書いておられた。「運命」は解放され、変えられるのだ!決して、「運」を使い切ることもないのだ。幸運をどんどん引き寄せることも可能なのだ。きっと生徒と駒ケ岳のピークに立てるだろう!

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