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引きこもりを卒業して、仲間を見つける動きをしたい / 発言者:NLhideyuki

おはようございます。
不安や恐怖、つらい、しんどい。。。とくにそういったネガティブと言われてきた感情を表に出すことを、私は「依存」と解釈し、人前ですることを躊躇ってきましたが、じつはそうではないのではないかと疑問を感じています。
どうしてそう考え始めたかというと、言語化しないままで溜め込んでいると、たとえばゲームに嵌り続けたり、引きこもりを始めたりと、結果的につらいことをしてしまうからです。人前で中身を表に出すことを依存として捉えてきました。我慢すべきもの、間違っていることと解釈してきました。間違っていることが真ならば、私は正しいことをしているはずですが、正しいことをしているはずの私の顔は、鏡で見るととっても辛そうで、もう止めたいと言っているようでした。自分勝手と言われることを避けたいとの過剰な防禦する気持ちも、引きこもりに拍車をかけてきました。
つい先日ワールドカップで、アルゼンチンのメッシがペナルティキックを外しました。チームメイトが「彼もぼくたちと同じ人間だったというだけさ」とメディアで擁護ととれる意思を表現しました。その通りで、不安や恐怖を感じること自体を打ち消してしまってはそれは人間ではないようなと疑問を感じています。
なぜ中身を表に出すことを躊躇ってきたのか。「思っていることをあまり人に言うものではない」。それが家族内の暗黙のルールだった気がしています。私はじいさんばあさん子で、祖父は警察署長。祖母はその妻でした。そういった環境だったせいか、二人とも思っていることを表に出す習慣はないように感じています。私自身も「そういったことはあまり人に言わないの」と嗜められた記憶があります。折しも鬱で苦しくて、その苦しみを人に分かって欲しいとの気持ちが強かった時期で、「そう言うなら、この苦しみを解決してくれよ!」と中身では反発していました。今も実家に帰ると、何も話してはいけないような窮屈さを感じて、元気が出ないのです。
たしかに、分かって欲しいと相手に依存すること、それ自体を目的として表に出すことは、叶わない気持ちだけが重たくつのり苦しくなりますが、そうでなく自分自身と向かい合ってゆく過程であるならば、苦しくはありません。
自分自身と向かいあわずに、早く成功したいとの焦りから他者の成功例を真似よう真似ようと努めてきましたが、結果的には「できないできない」と自分を責め立てるだけで、そもそも原動力がないところに、毎日朝起きるたびにそんな自分をどうやって奮い立たせようかと腐心するその場限りの生き方が身の丈に合わずとても苦しいのです。
表現しなければ仲間を見つけることがそもそも叶わないのではないかとの疑問もあります。
ムリをできることが自分のアイデンティティの一部であり、それが失われつつある今、新しい生き方を模索することは大変苦しいとばかり始めは考えておりましたが、こうして表現させていただいていると、必ずしもそうでないことも明らかになり、大変心強いです。
続きはまた表現させていただきます。
本日もまたよろしくお願いします。

中川秀之

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