Home > 高麗恵子 WEB サロン > なぜ虎になってしまったのか

なぜ虎になってしまったのか / 発言者:tmiyazaki

  ご存知の方も多いと思うが、高校2年生用の現代文の教科書に中島敦の『山月記』が入っている。中国の「人虎伝」という資料に基づいているのだが、秀才李徴は若くして科挙に合格し役人の道を歩み出すのだが、凡夫ばかりの権威主義が嫌で、詩人を目指すことにする。しかし、それも才能を持ちながらも知識人階級に認められず、再び地方官になったまま発狂して、とうとう虎になってしまうのだ。数年経ち、親友が李徴と再会し、虎は、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を飼い太らせた結果なのだと自戒し、別れを告げるかのように空谷に咆哮するというストーリー。「どうして李徴は虎になってしまったのか」を読み取るのが主題なんだが、ごく普通には、内面の獣性を放置し、他者と交流し、切磋琢磨の努力をしなかった故となる。しかし、これではまるで道徳の書ではないか。勉学に励まなければならないと思わせるために、この小説が採用されているのだろうか。そこで、「きみ自身はどう考えるか」の作文をテストで記述するように課した。高校生たちが困っている。たしかに虎が述懐しているのだから、それ以上でもないし、それ以下でもないのだろうが、作者はほんとうにそう思ってこの小説を書いたのだろうか、問いかける。第一、努力したら才能は開花すると信じられるか、また、妻子の幸福を第一に願うことと、詩人として大成することとが同一のことだろうか、などとも言うと、やっとかれらは「読み」を深めるところまで到達したような顔つきをする。答案が楽しみだ。(わたし自身は、「才能」の有無などにこだわり、自己肯定感も少なく、反省ばかりしているから、結果虎にしかなれなかったのだと思う。あるいは、知識人の深い哀しみは、虎ほどの獣性と孤独に近いのであって、むしろ虎になったことを受け止めているのではないかと読む。)

Home > 高麗恵子 WEB サロン > なぜ虎になってしまったのか

検索
Feeds

Page Top