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生きる / 発言者:Keiko Koma

今朝はあまりの具合の悪さに流石に珈琲を淹れることができずにいたのですが、出掛けに持ち歩き用のポットに入れる五女山焙煎珈琲を淹れ、ひと口いただくと、一気に元気になったのです。何故朝一番に淹れなかったのかと自分の愚かさを悔やみましたが、五女山焙煎珈琲の威力を今日も身をもってわかる機会となりました。
 応用コース、「存在論」と経験させていただき、最近の曇りが全部整理出来ました。整理というよりも、胸の奥深くにある魂が動き、表に現れたのです。ひっこんで生きることは死を意味することも体でわかりました。生きることは真の自分を100パーセント活かし、実現することであり、「存在論」を経験した今は、存在あらわる生き方より人間とし生まれた意味がないとはっきりとわかりました。応用コースでは体のトレーニングとし20分歩く事、脳のトレーニングは45分とお聞きし、歩き方まで教えていただきました。意識であと3分と頑張って歩いても倒れてしまうとの比喩により、どう歩くかはわかってきました。そして人と歩くこともはじめて考えるお話をお聞き出来ました。
 応用コースにて詩を書いている人の気持ちをわかるか。。。との一言で魂が動き、このようなお話をお聞き出来る機会を私は最も求めている自分の気持ちを確認出来ました。人間とは何かを学ぶことが出来る人生は恵まれています。ずっと聞いていたいと感じます。また、人間にはこのような機会が必要と強く感じました。
 存在論では、自分の曇りは迷いであったと見える瞬間がありました。善悪を考える癖により曇っているとわかった瞬間、殻が壊れ、魂が表に現れました。生きる世界も次元も変わりました。自分がどう生きるかで全ては決まるのです。それもおおいなる存在とつながり、全体とひとつである自分がどう生きるかです。自分勝手に生きることは死へと向かう人生です。全体とひとつである個で生きる人生は永遠と考えます。
 ハイデガーは、可能性が存在であると説いておられるということを、帰りの車の中で再度先生におっしゃっていただいた瞬間、見えるようにわかりました。生命は不可能に向かいはたらくことを本音で生き始めた時に先生に教えて頂きました。可能性をみつけ生きる時に存在と出会うと見え、どんな時も可能性をみつけ、生きていくと決めると、胸が大きくひらきました。場を作ることも胸がひらきます。存在あらわし、場を作り生きることがこれからの時代を生きていくことと見え、それ以外は生きることにはならないのだとよくわかりました。
 比叡山に帰り、工房にて窯から器を出しました。神と見えます。見た瞬間、重要文化財と見え、縄文と叫んだ器にて檀君スペシャル珈琲を頂きました。神あらわれました。神の味を体感し、一遍に生きる世界が拓かれました。比叡山のお茶室にて神の器にて神の珈琲を皆様と共に頂ける時を心に浮かべながらいただいていました。その時、人間とし生きる意味、存在あらわると見え、とても心がときめきます。
 今日となりましたが、京都御所南高麗屋にて幻のコグリョカフェをオープンします。是非お越しいただければありがたいです。
 東京ではたくさんの方々にお世話になり、人間の温かさが心よりありがたく、感謝申し上げます。ありがとうございます。

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